自然と人とのふれあい・・・
木造校舎の宿  延齢草    「延齢草」とは

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在りし日の大河原中学校と桂の木
1995年


「延齢草」の移築前の建物は、敗戦後の新憲法と教育基本法に基づいた新制中学として、1949 年に大鹿村大河原地区に開校した大河原中学校の校舎でした。

新制中学の開校に関しては、当時の経済・社会・政治情勢に伴う多くのエピソードが全国の多くの地域で残されているように、建設に直接関わった人たちには忘れがたい経験として記憶され続けてきたようです。

この大河原中学校も、その例に漏れず、学童数の減少に伴う統廃合によって閉校してからも、「建物自体が村民の心意気を伝える民俗資料である」との観点から「民俗資料館」として利用され続けていました。

ところが、敗戦から 50 年を前にした1990 年代になって、行政による取り壊しの動きが顕在化してきました。

そこで、当時まだ健在だった校舎建設に直接関わった方たちの意向も踏まえて、小林俊夫さんを中心とした人たちが、校舎の保存運動に立ち上がりました。

大鹿村出身者を含めた県外からの保存を求める声や、戦後教育史に詳しい教育学者等の激励の声などを背景に、3 年近くの粘り強い行政への働きかけが行なわれましたが、結局、行政の校舎解体撤去の決定は覆りませんでした。

そこで、小林さんは、最後に残された道として「私たちの手で移築しよう」と決断し、「廃材の払い下げ」を受けて自力で移築することにしたのです。

そして、保存運動に関わった仲間たちの力を合わせて、解体予定日までの限られた時間内での「手作業による再建のための材の確保」が行なわれました。

それから、1 年余りをかけ、やはり仲間たちの力によって、規模は小さくなったものの、旧校舎建設の精神を受け継いだ「大河原中学校記念校舎 延齢草」が、1997年に完成したのです。



1995年・毎日新聞 社説




校門から旧校舎玄関へ


長く続く廊下


校舎送別会の日の教室


対岸から校舎と桂の木を臨む


再建された校舎
延齢草

 面影を残して



 復元された階段



 
赤石岳が見える図書館の窓が、
そのまま、赤石岳が見える延齢草の窓に


木造校舎の保存と今後の展開について


長野県 大鹿村大河原  小林 俊夫


 私の母校である旧大河原中学校の木造校舎が、この 2月 1 日をもって解体され、48 年間の歴史に幕を閉じた。
 1992 年秋、校舎解体と桂の木の伐採の予定を知り、なんとか残したいと思ったのが発端だった。建設に携わった中村寿人先生や岩村貞男さんをはじめ多くの人々の話を聞くうちに、これは残さねばならない建物だという確信をもつに至った。(建設までの経過や意義は、前に書いた文章にゆずる)
 しかし結局は、行政側に何も残させることはできなかった。これは保存運動の過程で予想されたことではあったが、最も決定的だったのは、特に卒業生を中心とする世代にとって、もはやこういう建物には何の意味も価値も見出せないという事実だった。行政及び議会の思考もこの延長上にあると考えれば、取り壊しは当然の帰結だったとも言える。そういう意識を代弁する行政に、校舎や桂の木を残して、その精神を伝えつつ活用することを期待しても無理だったと今にして思う。
 私達の最後のプログラムである校舎の送別会が終わったとき、私はこの保存を村に任せていては二重の意味で敗北するであろうことを悟った。ならば私たちの手で移築しよう。そして主体的に関わっていくことによって、その精神をふまえながらこれからの社会に必要なものに再生させることができるし、村を超えた新しい世界とつながっていくこともできると考えた。
 昨年 11 月15 日、解体に先立って払い下げの説明会があった。当日二十人ほどが参加した中、旧村民の姿は皆無であった。以後本年の 1 月 31日まで、校舎に思いを寄せる数人の人たちによって、下見板、床板、窓、屋根、柱、階段、梁と順を追って取り去り、ほぼ校舎半分の材料を確保することができた。今年の冬はとりわけ寒さ厳しく、凍える手に息を吐く吹きかけ、一枚一枚板をはずす日もあった。雪が降り積もった屋根の瓦を、高さと寒さに震えながらはがした日もあった。教室の床下には節穴や隙間から落下したノートや鉛筆などが堆積しており、それぞれの年代の人たちがここを通過していった時間を見た。
 一階の床下には、直径 1メートルもある巨木の切り株があったり、河原の石がごろごろ散在しており、建設当時の整地の苦労を見ることができた。巨大な梁に刻まれた無数の引き跡や今も残る泥土に、汗まみれになって引いた人々の姿を見た。土壁の内部や板壁など、よくもこれだけの手間をかけて作り上げたものだとうなってしまった。ただただ圧倒され続けた解体の日々であった。
 2 月 1 日、二ヵ月余りにわたって解体した校舎の残り半分を、重機はたった二時間で跡形もなく壊し、全てが消えた。
 五十年前、敗戦によって日本人の生活と価値観が根柢から覆されたとき、大河原の人々は新しい時代を子供たちに託して、知恵と力を出し合って自力で校舎を建てた。そしてその場に育っていたまっすぐに伸びた見事な桂の木を子供たちのために残した。
 校舎建設当時に比べ物質的にははるかに豊かになった今、人々は精神的閉塞状態に陥ってしまったようだ。人権と環境がこれからの社会のキーワードとして語られるが、具体的なプロセスが示されず言葉だけが先行している。
 貧しさの中で人間の精神は豊かになれるものなのか、伝統であったのか、この問いは今後の課題としたい。いずれにせよ、ここに込められた歴史と精神は、現代社会に活かされるべきものである。

 この保存運動は、村内外の若い人たちの真摯な行動によって支えられてきた。そこに希望を見出すことができる。私はこの校舎を、土に根差した生活と労働を体験する場とし、自然の持つ絶対的価値を一人一人が探求する学び舎として活かしたいと思っている。

 追記
 桂の木は、この文章を執筆中に突然移植作業が始まり、難行のあげく 3 月 20 日に移植されました。それは、誰もが予想しなかったことでした。
 樹齢百二十年余りとのことで、母木から風に運ばれ、河原に根を下ろして育った木でした。小学校の校舎建設の障害になるという理由で移植されることになりましたが、教育の場であるからこそ、共生すること、生命に対する畏敬を学ぶ絶好の機会だったはずです。
 ともあれ、無事に根付き再び枝葉を繁らせてくれることを祈っています。
                 1996 年 3 月 25 日




多目的ホールになった教室




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